4月12日Y'assy生誕記念号 田中康夫の「だから、言わんこっちゃない!」vol.271『奇しくも今日はY’assy生誕祭💖 「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」』

田中康夫の「だから、言わんこっちゃない!」vol.271『奇しくも今日はY’assy生誕祭💖 「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」』と題してお届けをいたします。

1956年・昭和31年、「もはや戦後ではない」と言われた年の4月12日にですねヤッシーは生誕をしたわけでございまして、

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今日で62歳。『なんクリ』を書いたのが1980年で本が出たのが1981年で、まだ大学生の時でございますから、その時がちょうど24歳だったんでございますね、ヤッシーは一浪して一留でございますから。

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阪神・淡路大震災でヴォランティアをやった時は38歳でございまして、

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知事になった時にはちょうど44歳でございまして、

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知事を退任したのが50歳だったという形で、結婚しましたのが2010年でございますから、

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それまでにヤッシーが何百人という女性の方と付き合ってきたわけなんでございますけども、誰1人も何も言わないというところが見捨てられているのかよっぽどヤッシーが「口説くを」誤植w「功徳を」施したのかということでございますけど、それが今から8年前でございますので54歳ということなんでございますね。さて、今日4月12日というのは実は「世界宇宙飛行記念の日」という、ガガーリン少佐が初めて空を飛んだという日なんでございまして、あとはですね有名どころで言いますとデイヴィッド・キャシディってパートリッジ・ファミリーという、もう亡くなってしまいましたけども、そのうち「たまらなく、AOR」で掛けようと思ってこないだヤッシーの8000枚くらいのレコードの中からデイヴィッド・キャシディのレコードを買ってたのを思い出しましてですね、一生懸命探して参りましたけども、そのうちお掛けしようと思いますけども。

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わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯 (新潮文庫)

わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯 (新潮文庫)

 

『わしの眼は十年先が見える』っていうのは何かと言うと、皆様ご存じの城山三郎さんという作家がいらっしゃいました。この方も一橋、っていうか東京商科大学のご出身だったんでございますけれども、城山さんは私のですね予備校の、駿台高等予備校と当時言われていた午前部文科一類の、最初C組でその後B組になったんですけど、C組の時の前の席に座ってた人がですね、杉浦君っていう、これが城山三郎さんの息子さんだったんです。城山三郎さんってのは、なんで「城山三郎」さんっていうペンネームにされたかって言うとですね、一橋を出られた後、愛知学芸大というところで勤務をされていたんでございますけれども、そこで景気論とかを講義されていたんですけれども、その時に小説を初めてお書きになって応募する時に、城山3丁目というところに住んでたんで「城山三郎」とされたということでございまして、「太郎次郎三郎時代」というふうに言われたわけですね、司馬遼太郎それから新田次郎城山三郎というふうに言われました。彼はもともと海軍の特別幹部練習生だった方なんで、まさにそういったところに行ったんですけど、非常に護憲派であった方であります。晩年に小泉純一郎さんが首相になった時に、週刊文春で「小泉さんに期待する」という対談をしたのが多分、晩年、自分の最も、なんかちょっと恥ずかしかったかなという感じがないかな、と思います。大変な愛妻家でございまして、奥さまが先に病気で亡くなられた後にですね、ゴルフが好きで、ご自分がすごいスランプの時にもゴルフをすることで何とか抜け出したと。で、同じく亡くなられた渡辺淳一さんが「城山君、一人でそんな茅ヶ崎に住んでてなかなか大変だろう、身の回りが」と。「誰か女性を紹介するよ」って言った時にですね、しげしげと渡辺淳一さんの顔を見て「君のお古じゃないだろうな」って言ったってのが城山三郎さんらしいって感じがします。その杉浦君とはですね私が予備校出た後も、彼は慶応に行ったんですが、仲が良くてお家に何度か遊びに行くと「静かにしなさい」と言って、原稿を夜書いてらっしゃるので、というようなこともありました。

城山三郎さんの本に『官僚たちの夏』という本がございまして、これは当時の通商産業省の中で、実はこの中でどんどん出世をしてって「そうじゃない、日本のことを本当に考えてる」という人が出てくるわけでございますけど、どんどんどんどん行っちゃうってのが実はなんと今井善衛さん、今の秘書官の今井尚哉さんのご親戚だったりするっていう奇しくも話でありますが、この中に1ヶ所、女の方の名前を間違えてるんでですね、秘書の方だったかな、間違えてる箇所がございまして、それを城山さんにお伝えしたら、当然新潮社から出てたわけで、新潮社の校閲というのは大変な能力が講談社と並んであったわけでございまして、いやいやいや、そこの人たちもチェックできなかったのをまだ当時大学生だった、ちょうど一橋に入る時だったんですね、予備校を出た後、城山さん家に初めて遊びに行って、というのも思い出すところでございます。この城山さんがお書きになった本でですね『わしの眼は十年先が見える』というのがこれが大原孫三郎という人の生涯の話であります。

大原孫三郎というのは皆さんご存じだと思いますけど倉敷紡績、倉紡それから倉敷クラレ、現在のクラレですね。あるいは倉敷毛織とかですね、あるいは現在の、岡山が本店の中国銀行の前身の中国合同銀行とか、あるいは中国電力の前身の中国水力電気会社の社長を務めたと。で、大原財閥を築き上げたという方でございます、と言うとですね、まるで富国強兵の人かのように思うかもしれませんけど、この方はそうじゃない。お父さんが倉紡を作られた、倉敷紡績を作られた大地主だったと。この方はですね、もう本当に遊び人で、お兄さんが2人亡くなってしまったんですけども、だから自分が継ぐことになるんですけど、早稲田、当時の東京専門学校に明治30年に入って、めちゃくちゃ遊んで『ブラザーサン・シスタームーン』のですね、聖フランチェスコみたいなもんでございますね。まあヤッシーのようなもんで、放蕩で遊びの限りを尽くしたっていうんですけど、ヤッシーとひと桁(ふた桁? み桁? by「田中康夫 Speech To Text Online」中の人)違いだったのはですね、殆ど学校に行かないで、なんと1万5000円、今のお金でだいたい1億円も借金抱えちゃって、親にさすがに呼び戻されて、中退をして倉敷に戻って謹慎処分をしてたと。その時に知り合ったのが、大変なこの方も人物でありまして、石井十次。石井に「じゅうじ」ってのは「十」という字に「次」という字を書く。この方はですね医学部にも入られた方だったんですけども、ある意味では、非常に貧困である人たちのために尽くすということで、キリスト教プロテスタントですけども、孤児院を作られたり、石井記念友愛社というものは今でも宮崎県、もともと宮崎のご出身。石井記念館というものがあるわけであるわけですね。この人に非常に影響を受けた。なので彼はすごい人でありまして、実はお父さんが社員寮内で明治39年に感染病を出して社員数名が死んでしまった責任を取る形で辞任した。今はですね、これだけのことがあっても辞任しないような人が大沢山でございまして、先日も話したカルロス・ゴーンなどという人は、本当にですね、流浪の民であったですね(レヴァノンの)DNAを引く方とは思えないような居直り方ではなかろうかと思いますけども。で、彼(大原孫三郎)が就任するんです。彼はすごいわけです、そこで工場の改善運動をするんですね。改善運動って言ったら、日本はまるでですね急進運動のようにですね、なんか生産効率を上げようってこと、そうじゃなくてですね、ちゃんと食事とかですね日用品の販売を会社が行うように頒布する。それまで飯場制度だったらしいですね。いわゆるその手の世界の方が、大相撲の周りにいるような方々がですね、倉敷紡績の工場の人たちの、そういうご飯だとかなんとか日用品も売ってテラ銭を稼いでいたと。それも止めて、社宅のような集団寄宿舎から社宅にしてったと。で、託児所も置いた。これはクレスピ・ダッダという場所がイタリアにございましてですね、川のほとりでミラノとベルガモの間にあるんですけれども、ここもやっぱりこういう工場作った。これは、クレスピ・ダッダっていうのは一族がですね、そういう一つの理想の地域を作ったんですね。これと同じような方がこの大原さんであります。

大原さんはですね、ほとんどの利益をですね、日露戦争などで増えた孤児を救うために孤児院を作ったと。これらの支給金額は現在の金額で約数百億円に上った。古い重役とか株主がギャーギャー言うと、いつも常に「わしの眼は十年先が見える」ということを言っていた。ある意味じゃこの方はですね、治安維持法の下でマルクス経済学の研究なんかをしていたですね大原社会問題研究所、これが現在の法政大学の大原社会問題研究所になっているわけでありまして、法政が、学生運動があったから「左っぺい」っていう話じゃなくて、法政も今やですね、炊き出し運動をやっていたような方なのに、いつのまにか教授になってるような、お父様が日経新聞に勤めていたような変なお兄ちゃま(湯浅誠さま)とかですね、あるいはいまだに永遠の青年のような小説の青臭いこと言ってる方(島田雅彦さま)とか、いろんな方が教授でいらっしゃって香ばしい限りでございますけども、(学長の)田中優子様は如何お過ごしかという形でございますけど、こういう立派なことを、医療とかですね行ってきた。これが本来のまともな経営者の保守ということだと思うんですね。

このことを城山三郎さんは、『もう、きみには頼まない』ってのは石坂泰三さんという東芝の、そして大阪万博を開いた時の人物であったり、あるいは石田礼助さんというですね、国鉄の総裁だった人で、『粗にして野だが卑ではない』っていう本もありますけども、この大原孫三郎という人がですね『わしの眼は十年先が見える』と。ある意味ではリーダーというのはそういうもんなんでございますですよね。べつにヤッシーはそれほどではございませんけども、木製ガードレールも今頃になってですね、「なんか立派な木造の建物を建てよう」なんて住友林業が言い出して、「なんか同じようなことを言ってた奴がいるな」とかって言われておりますけれども、是非この『わしの眼は十年先が見える』は新潮文庫で、今はもう城山さんがお亡くなりになった後も出ておりますですね。そうではなくても簡単にご覧になるとですね、やはり今こそ大原孫三郎のような人物が、経済においても政治においても、あるいは文化においても、もっと言えばですね、今大阪で、太陽の塔ができておりますけど、太陽の塔もですね、これは浅田彰さんとの対談でいずれ載るかと思いますけど、太陽の塔も、あれは突如後から岡本太郎がボカーンと建てちゃったんですね、コマネチなんて言ってる人とは全然違うレベルにおいて。で、あの時もなんと、当時の通産省ですね、で、堺屋太一のような人もいましたが、同時に通産省から来ていた役人の人が、最初の、初代の事務局長かなんかだった方で、この方が、何でも良いからっていうんじゃなくて、ちゃんと才能を見極めた上で「あなたに10億円くらいあげるから、これで何でも作ってください」と。「何かできなくても構いません」と言われて、彼(岡本太郎)はもともとフランスに行ったりして博覧会という、パリ博の頃のこととかも知っていますから、そしてあの塔が出来てったわけですね。もちろんあれは人類の進歩と調和というものに対しての最大の皮肉のようなものでもあったということですよね。でもそれが、今考えてみると富国強兵ではない富国裕民というのは何なのか?と、先日来お話をしてる逆命利君ってのは何なのか?あるいはそれを受け入れるものがあったということです。

田中康夫の新ニッポン論」「ディスカバー・ジャパン」

田中康夫の新ニッポン論」「モーレツからビューティフルへ」

憂国呆談」2014年12月号 ディスカバー・ジャパンから、勢いを増すイスラム国、スコットランドの独立騒動、香港の学生デモまで!
https://www.nippon-dream.com/?p=12895

憂国呆談」2018年7月号 岡本太郎の「太陽の塔」から、国立民族学博物館の原点、アラーキーのセクハラ告発まで。

Vol.536 G20・万博・カジノ3点セットでは東京一極集中を打破出来る訳もない痛いスリーパーセルの街OSAKA!都構想ありきの対抗意識では「リトルトーキョー」にもなれないこれだけの理由(涙)

 

「ディスカバー・ジャパン」という(国鉄のキャンペーンを)藤岡和賀夫さんっていう電通にいらっしゃった方が考えた。でもこの「ディスカバー・ジャパン」に関しても、その当時書かれてることっていうのは「こんな社会じゃだめだよ」っていうことを言ってるんですね。まさに「Oh!モーレツ」と言ってる時にあれが出てきたということです。そしてですね、その時に富士ゼロックス小林陽太郎さんという、亡くなられた、今の富士写真ホールディングスの経営の方々とは全く違う意識の方がいらっしゃってですね「大阪万博、今、取り壊しています」って写真をずっと連続して新聞広告で載っけてっているんですね。じゃあ、それはどう作られていくのか。壊すだけじゃないということを示していく、それは今の政策の優先順位はどこにあんのかということを野党は箇条書きでも良いから志位和夫さんあたりは是非お示しになるということがですね、あるいは日本共産党って名前を変える、ということくらいが大事なわけでございまして、このあたりを日本共産党の、未だに赤旗をですね1部配っていくら、みたいなおじいちゃんおばあちゃんがお怒りになったとしても変えるくらいな大変化と、それはやはり、フジテレビが今は低迷しておりますけども、フジテレビのですね、どうせ鹿内信隆さんの息子で、だめな奴だろうなどと言われた鹿内春雄さんというものがフジテレビを変えた時にですね、どんな批判でもいいと、あるいはニュース(センター)のところに来て、今昼間の番組をやってらっしゃる、フジテレビで女性のお名前が今出てこない・・・、博報堂の方と結婚して今離婚したのかな、彼女(安藤優子)が(僕に)言ったんですけど、ぼーっと来て見てると。自分の考えとどうであれ、流すということ、それはやっぱりバラク・オバマさんが言った、最後の会見の時に記者たちに「君たちは懐疑的であれ、懐疑的ってのは粗探しをしろってことじゃなくて、クンクンと鼻を鳴らしてこれはどうも変だぞ」と、「みんなが褒めてても、あるいは政府がこう言ってても、(役所発表資料の)ペーストの記事書いちゃこれは薬害になっちゃうなと思え」と。「そしてそのことを徹底的に書け」と。「厳しい質問を私にしろ」と。「それがあなた方の仕事だ」と、「私の後の人にもそうしなさい」と(オバマは最後の大統領会見で)言ったわけでございますけれども、やはりそういうクリエイティブ・コンフリクト(Creative Conflict)、クリエイティブな葛藤を、クリエイティブな緊張感、忖度をするんではなくて、逆に忖度を超えたような、クリエイティブなコンフリクトをするということでありですね、それは「わしの眼は十年先が見える」と言ったこの大原孫三郎という人がですね、単なる威張りではなくて素晴らしいことを言ってたということを、今日、62歳の誕生日にですね、改めて皆様にお伝えしようと思って大原孫三郎、そして城山三郎さんの話をさせていただきました。

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「註の新たな註」
「いまクリ」と「もとクリ」、その記憶の円盤が舞い続ける時空。

ようこそ現在から1980年の東京、そして日本へ❣
「✽文庫本化に際しての、ひとつの新たな長い註。」でお約束した「註の新たな註」は、
両書に登場する「字句の解釈」に留まらず、
高度消費社会の幕開けから現在に至る時代背景を、
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