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季刊『 a t 』 15号(2009年4月 太田出版)が「賀川豊彦 その現代的可能性を求めて」を特集した際、『「KOBE」、その引力と斥力』と題して田中康夫さんがインタヴューを受けています。⇒ PDFファイルはこちらからどうぞ
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[田中康夫]一人ひとりの人間は微力だけど、でも決して無力ではないということをですね、実践し体現をした、今、私たちがですね、改めて彼の生き様を確認する必要がある人物だと思っています。
虐げられたり貧しい人々の生活改善運動に身を投じたというのは、神戸という港町が持つ表の顔と裏の顔、その落差というものを彼は鋭く見抜いて、そしてそこに暮らす一人ひとりの悲しみや憂いを喜びや希望に変えよう、その為に人生を投じたんだと思います。
1888 | 7月10日、神戸市に生れ、4歳の時両親を失って、徳島県の賀川家にひきとられた。 |
1906 | 明治学院神学部に在学中、徳島毎日新聞に「世界平和論」を投稿、掲載された。 |
1909 | 神戸神学校在学中にもかかわらず、神戸のスラムに住みこみ、イエス団をおこし、主としてキリスト教伝道を行った。 |
1913 | イエス団に奉仕する、芝はると結婚。 |
1914 | 賀川はプリンストン大学へ、夫人は横浜共立女子神学校へ神学研究のため入学。 |
1916 | プリンストン大学からB.D.をうけた。 |
1917 | アメリカから帰国すると、直ちに神戸のスラムにもどって、キリスト教伝道と社会事業をはじめた。 |
1918 | 友愛会に加入し、神戸地区の労働運動に参加して次第に関西一円の指導者となった。 |
1919 | 労働運動と併行して消費組合運動をおこし、まず大阪に購買組合共益社を組織した。 |
1920 | 10月上旬小説「死線を越えて」を出版。ベスト・セラーとなった。 |
1921 | 神戸市において、神戸購買組合と灘購買組合を設立した。 |
1921 | 6月、川崎造船所、三菱造船所に労働争議がおこり、友愛会がそれを指導することになり、賀川は中心人物として活躍したがついに8月惨敗におわった。バートランド・ラッセルを神戸のスラムに迎えたのは、その争議の最中であった。 10月5日、宗教団体イエスの友会をつくった。その後賀川はキリスト教伝道に力を入れる日が多くなった。 10月17日、農民の間に覚醒を叫んで、日本農民組合が誕生。 賀川とバートランド・ラッセル |
1922 | 国際労働会議の代議員に選ばれたが辞退。アインシュタインを、神戸に迎えて語ったのはこの年であった。 |
1923 | 東京横浜地方の大震災、その救援のためイエスの友会の同志を伴って東京に移り住み、神戸イエス団の隣保事業はそのまま継続した。 |
1924 | 帝国経済会議、中央職業紹介委員会などの委員になり、賀川の発言は政府が重要視するようになった。 11月25日、全アメリカ大学連盟から招かれ、ヨーロッパ諸国も視察する予定で出発。 |
1925 | 日本救癩協会(日本MTL)誕生。帰国した賀川はイエスの友会全国大会において「百万人救霊運動」を開始することを宣言。大阪の労働者街に四貫島セツルメントを創設した。 |
1926 | 東京学生消費組合を組織した。日本農村伝道団をつくって、農民福音学校をおこした。 |
1927 | 奥丹後地方に大地震がおこって被害甚大、その救護に努力。 4月18日、東京に江東消費組合を組織。 アメリカのカガワ後援会が、賀川の事業と運動を助けるためミス・ヘレン・タッピングを派遣してきた。 |
1928 | 東京に中郷質庫信用組合を組織して、貧しい人のための金融機関にした。 全国非戦同盟をつくって、講演会をひらいた。 |
1929 | カナダ、パインヒル神学校から神学博士の称号がおくられた。 東京市長から社会局長に就任するよう交渉があったが、断って、顧問になった。 中華民国の招きをうけ、その中部地方で協同組合の指導をした。 |
1931 | 中華民国の招きをうけ、上海地方を中心に講演した。 東京医療利用購買組合を組織し、医療の大衆化を計画。 カナダで開かれた世界YMCA大会に日本代表として出席。 |
1932 | 政府から社会保険調査員を命ぜられた。 |
1933 | 日本協同組合学校をはじめ、協同組合運動者の養成に尽力。 |
1934 | フィリピンのキリスト教伝道に出かけた。 |
1935 | オーストラリア、ニュージーランドのキリスト教伝道を応援し、一旦帰国。再びアメリカ政府、並びにキリスト教連盟の招きに応じて渡米。 |
1936 | ノルウエー、オスローにおける世界日曜学校連盟大会に招かれて「日曜学校と世界教化」について講演。 |
1938 | 神戸、大阪地方の大水害に救護を行った。 世界宣教大会がインドで開かれ、日本代表として参加し、のち、インド各地をまわってキリスト教伝道とともに協同組合について講演。 |
1940 | 反戦論の件について渋谷憲兵隊に検挙され18日間留置された。 |
1941 | 平和使節として、アメリカにおもむき戦争防止のために尽力した。 |
1942 | 満州各地を巡回し、キリスト教伝道と協同組合について語った。 |
1943 | 5月、反戦思想、社会主義思想の故をもって神戸相生橋警察署に留置された。 11月、反戦的行為をしたということで、東京憲兵隊本部の取調べが9日間引きつづいて行われ、友和会の解散、国際戦争反対者同盟からの脱退を強要された。 |
1944 | 宗教使節として、中華民国にゆき、暗殺の危険にさらされつつ、キリスト教伝道と平和工作を行った。 |
1945 | 戦時救済委員会委員長として、戦災者の救護にあたった。 厚生省戦災援護会委員になった。 8月19日(日)松沢教会で説教。「世界国家について」。 8月26日、東久邇宮内閣の参与。 8月30日、「マッカーサー総司令官に寄す」を読売報知に掲載。 9月、国際平和協会を設立して、機関誌「世界国家」を発行。 厚生省、神戸市の顧問になる。議会制度審議会委員になる。 11月、日本協同組合同盟をつくり、会長となる。 12月、日本教育者組合をつくり、その会長となる。 |
1946 | 食糧対策審議会委員になる。また貴族院議員に勅選された。 広報活動のため、キリスト新聞社を創設した。 日本基督教団の大衆伝道、「新日本建設キリスト運動」の先頭にたった。 |
1947 | 天皇、皇后両陛下の招きにより「社会事業について」進講。 7月、全国農民組合を組織し、組合長となった。 |
1949 | 12月、イギリスの世界宣教運動本部の招きをうけ、キリスト教伝道のため出発。 |
1950 | イギリス、ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スエーデンなどの諸国をまわり、キリスト教伝道を行った。 7月、アメリカにわたり、その後、6箇月間キリスト教伝道に協力した。 アメリカ、ペンシルバニア州のキュカ・カレッジから文学博士の称号をおくられた。 |
1952 | 広島市で、世界連邦アジア会議をひらいて、その議長となった。 |
1953 | ブラジルからキリスト教伝道のため招かれ、3箇月旅行をした。 |
1954 | 第二回世界キリスト教会議のためアメリカにわたり、その前後各地でキリスト教伝道をし、滞在4箇月に及んだ。 東京都で第二回世界連邦アジア会議をひらいて、その議長をつとめた。 |
1955 | 日韓両国の不調をうれえて「李承晩大統領に訴う」公開状を毎日新聞に発表。 |
1956 | 神戸市教育委員会委員に任命された。 |
1957 | タイ国のキリスト教伝道を援助のため出かけた。 京都で第三回世界連邦アジア会議を開催して、議長をつとめた。 |
1958 | マラヤで開かれた国際協同組合同盟の東南アジア会議に日本代表として出席。 徳島市が名誉市民として賀川を推挙した。 世界平和のためのキリスト者国際会議をひらき、その議長をつとめた。 |
1959 | 1月、キリスト教伝道の途上、高松駅にて病気になり、その後療養中。健康のゆるす範囲で執筆、放送をつづけた。 12月、インドネシヤの内乱を憂える病床の賀川は、スカルノ大統領、シンボロン革命軍代表その他に「インドネシヤに平和を来らせよ」とメッセージをおくり、インドネシヤキリスト教協議会長などから感謝の手紙を受けとった。 |
1960 | 1月24日、秩父宮妃殿下を総裁とする「福祉施設に働く人々をねぎらう会」から第六人目の表彰をうけた。1960、4月23日午後9時13分逝去。4月29日青山学院大学礼拝堂にて葬儀を行う。 |
- 作者: マイケル・ジャクソン,田中康夫
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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